So-net無料ブログ作成

オグリ 昔話の力 [観劇メモ]

きのうは「三郎と過ごす夕べ」に参加しました。ふみかちゃんと一緒に伝言ゲームとか、盛りだくさんで…ムキになるふみかちゃんを見れて大満足…。

さらに嬉しいことに、オグソ写真が当たった! みなさん、貞子の本名は「オグソ」というのだそうですよ!! 他組の生徒さんか卒業生かが太王四神記で楽屋に来たとき、「次何やるの?(チラシを見て)オグソ?」…す、すみれコードにはひっかからないのかしら(笑)。

あと訂正。オグソちゃんは三郎が野垂れ死んだ姿と、ムラのお茶会報告に書きましたが、折口信夫にひっぱられてました。正しくは、逃げたが捕まって殺され、墓の中で苦しんでいる三郎の様子、です。ムラのお茶会でもふみかちゃんはそうおっしゃってました。失礼しました。

オグソちゃんの動きは、寝たきりの人が突然起きて体の動かし方がわからないような動作→諦める、という流れだそうです。床に「の」の字を書くのはそういう意味なんですね。

さて、やっと本題。

昔、親に連れられて岩手を旅したとき、課題図書は宮澤賢治と遠野物語でした(自分の学習好きは親仕込みだったのか、今気付いた)。後者のつまらないこと。やっぱり、前者みたいな叙情とか人物描写とか、そういうものがないとつまらない、と思ったものです。

でも、でもでも。今なら遠野物語を楽しめると思う。オグリのおかげで、昔話の力を理解できたから。

人間(日本人とは言いたくない)、無意識にいろんな象徴の意味を知っていて、それらの遠い遠い延長線上に叙情とか人物描写とかが重要な現代の文学がある。でも、根っこの、シンプルで摩訶不思議な象徴で綴られたお話たちは、決して我々と無関係なもの、理解できないものではない。ユングが昔話に心理学のヒントを求めたように。あ~今なら古事記もわかるかも。

小栗と照手のデュエットでなんか泣きそうになるのだ。会えてよかったねって意味じゃなく、神様だ~ありがたや~って思って泣けるの。二人写りの写真買っちゃった。変だよね、自分(笑)。ああいう不調(わがまま)の者、巫女的な人に対する畏敬の念が私の深層心理にあるんだもん。

しかも、初めて二人が会ったシーンでもう二人が神様になるってわかってる。昔話だよなあ、先がわかって当然なのが。何度も同じ言葉を繰り返すのは、もとの説教節がそうなってるからなんだけど、昔話らしいよね。テレタビーズっていうイギリスのシュールな子供番組が好きなんですが、同じ場面を二度繰り返すの。子供はそれが好きなんだって。昔話を聞いてる私たちは子供のモードなんだ。くみちゃんの「地獄へ落ちろ」ってセリフどおりに地獄に落ちるし。「私を待っていたか」というセリフは、筋をわかってて当然、むしろそれが醍醐味っていう昔話の構造をも指しているのだ!(さすがにこれは深読みか)

定住/非定住という見方では、商人後藤も非定住だよね。商人、聖職者、人買い…説教節の中では同じイメージらしい。今でも、行商人っているかしら。流しのギター弾きとか。小さい頃、流しの紙芝居屋さんを見たけど、今いないよね。なんか怪しいもの、いつ来るか、どこから来るかわからないもの、不思議なお話をして去っていく…わ~めちゃめちゃイメージどおりやん。ちょっと前までは、非定住民の残像が残ってたんだなあ。

何度も言ってますが、この一見荒唐無稽な昔話は、タカラヅカだから出来たと思う。だって架空の存在で神格化されてるから。巫女が荒人神をまつるように、娘役を通して男役を愛し、ファンがいてこそジェンヌがいる。

子供だましで結構。テンポよく語られ、騙され、神様に接する、それが昔話の醍醐味じゃん。馬頭観音の縁日も明日で終わりでございます。
09-05-31_001.jpg

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

オグリ東京初見

バウと青年館と、劇場の大きさが違う!! 馬が小さい!! バウでは馬に支配されてるってぐらい馬が大きく見えたのよ~。「わー、この空間、埋まるんだろうか」と心配になったけど、出演者のパワーで空間を埋めていて、ひと安心。みんなすごいわ。じつは、同じ作品をバウ→青年館って短期間で連続して観たのは初めてかも。全組満遍なく見る人だったときは、東京でやるやつはわざわざ見に行かなかったからなあ。

あと、気になっていた萬様の声が治っていてよかった~。

音楽、歌いあげ系はいまいちだけど、セリフ系の、たとえば後藤が女房を脅すところなどは、けっこう良くできているということに気がついた。テンポがいい作品に仕上がっている一因かも。

客席がみんなすごく笑ってる。受けてる。盛り上がっててよい。んだけど…、笑いすぎでは? と思うところも。うーん。。。笑いの挙句、「逃げよう」で拍手が入った! ありがたい。ありがたいんだけどね。そういえば、小栗が弓を素手で取る場面も、10日の午後公演で拍手が入り始めた記憶があるし、リピーターが増えてきて、楽しみ方がわかってきているってことなんだろうけど。それとも、東京のほうが受ける話なのか??

初見の友人たちにはおおむね好評。だが、緑豆には不評。雪組公演中だというのに、わざわざ花組の出待ちにつきあってくれるから、何かと思ったら、帰り道「オグリのどこが面白いのか」小一時間問い詰められた……。「子どもだましじゃん」「ジュテームとどう違うわけ?」。うぅー、なんと反論したらいいのか。客席ですごく笑っている様子に対する違和感もそれなんだけど。。。よく言えばけれん味のある演出、悪く言えば子どもだましのコント。いやっ、それだけじゃないよ。それだけじゃない部分で面白いと思うんだけど、なんて言えばいいのかなああああ。

予習・復習の成果など
・一番最初の音楽が、壮大でもなんでもなく、「日本昔話」みたいなところがまず、いい。
・プロローグの「お話ーだよー」って歌うのも、あ、これは架空の話なんだ、おとぎ話が始まるんだ、って強調していていいよね。
・照手が横山責めをやめさせるシーンで、なるほど、巫女がなだめて荒人神になる、というのがひしひしわかる。
・母子神信仰がベースにあるから、設定上の母親の役割は大事なんだなあ。再会場面でのさあやの「小栗なのですね!」っていう言い回しが、すごく好き。お話の中に出てくる、いいお母さんって、こういうたおやかさがあるよね~。
・三郎が逃げるのは、定住民から非定住民になることなんだ! 小栗に追い出されて賤民になる三郎。彼は復活できるのだろうか。私が車を曳ければなあ~、三郎君のためにやるんだけどなあ~。

貞子がでんぐり返しをしそうになるの、見れた! ただ、最初の頃見たときは、もっと破れかぶれで怖かったような気がする。客席が笑うから、そういうモードになっているのかなあ。逆に、三郎は最初の頃の探りながらやってるふうがなくなり、自信満々でよかったです。うふ。
nice!(0)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:moblog

オグリの予習復習(文学史&民俗学編) [ヅカ的近況]

友人が勧めてくれた折口信夫は文章が難しすぎてなかなか読み進められなかったけど、そこから芋づる式に、他の民俗学や文学史の本を読んでみたら、嵌ってきた。深すぎる、小栗判官!

オグリ開幕前に「キムシン作品は象徴劇」と書きました。『鳳凰伝』での、カラフの名前を教えるか否かという緊迫感は、大昔、名前には呪力があるからよほど大切な人にしか教えないという風習があった、ということを踏まえたほうが面白い、というような。

で、オグリ開幕してみて気付いたのは、そもそも元の説教節自体が、現代人の我々にとっては、記号や象徴のようなものでできているものだということ。もちろん、それがわからなくても面白いから成功してるんだけど、もしその記号や象徴の意味を知っていると、もっと面白い。少なくとも自分は。

舞台を観る人にはあまり役に立たない、かえって混乱しちゃうかもしれないけども、また、知っている人には当たり前すぎることかもしれないけど、しかも自分が面白かったところだけなので整合性ないかもしれないけど、書いておきます。

一番面白かったのは、岩崎武雄著『さんせう太夫考: 中世の説経語り』平凡社 1994.1(平凡社ライブラリー版)。文章も美しいし、わかりやすい。(初版は1973、東洋文庫の説教節も1973、歌舞伎で80年ぶりに演じられたのが1974。ヅカファン的には1974はベルばら初演の年ですが、説教節でもブームの年だったんでしょうかね?)

前提として、中世には、村落に定住している農耕民と、定住していないで芸能や呪術をつかさどる漂泊の民とがいて、後者は人買いに売られたり、ひどい仕打ちを受けてるんだけれども、一方で畏怖&尊敬されたりもしている。説教節は後者の非定住民のもの。

小栗は村落共同体を追われた人である

・八幡神(荒人神)は、中世末期の戦乱の世に流行った神。若くして挫折した身分の高い人の霊が、農耕民族に害を与える、という神。=マレビト。小栗は貴種が追放されて神になった典型的な例。

(小栗がわがままなのは、共同体にいられない人なのだから当然なんだ。しかも荒々しい神様になっちゃうんだから、現代的な「みんなに好かれる」ヒーローとはぜんぜん違う。)

・大蛇は水神。定住している農耕民からしたら畏怖すべき神様。それを犯したということはよほどの罪。共同体にはいられない。=追放される。

(だから、72人の妻を迎えては返しても罪にはならないが、大蛇と契ったら大罪なのね! 私はどうしてもそこがわからなかった。だって、次々妻を替えるより、一人(蛇だけど)と相思相愛のほうが美徳でしょ、今は。)

・横山一門に対しても、共同体のルールを破ったから殺される。=追放される。

(三郎が小栗を殺そうとするのは、シスコンなわけでも、お父さんに気に入られたいわけでもない。そんな発想は彼らにはないんだね)

照手姫は巫女である

・照手姫は夢占いをするなど、巫女的要素がある。しかも、小栗の死などはこの人の視点で描かれている。つまり、巫女がこの物語を形成するのに重要な役割を果たしたということ。

・水仕事は水で清めるという意味で、温泉で病気が治るのと同じ。照手姫は小栗の代わりに苦労を背負っている。地獄の場面より前に照手姫が苦労する場面があるのは、照手姫が代償を払っているから小栗が蘇ることができた、という文脈になる。

・照手姫が餓鬼を愛するのは、人間的な愛情ではなく、死や穢れを祓って蘇生させる巫女だからこその宗教的なもの。母子神信仰とつながりがある。

巫女が定住民と非定住民の間をつないでいた

・小栗の車を曳く人たちには、非定住民もいるし、定住民(たとえば横山一門)もいる。街道でその二つが交わり合う。それを扇動するのが巫女。小栗判官の物語は非定住民が定住しつつある中世末期に成立したのではないか。


ほかにも、小松和彦の論文が面白かった。「照々坊主の原像--小栗判官譚の解読に向けて」『基督教文化研究所研究年報』 (24号 1990)、「流される神−「小栗判官譚」を手がかりに」『日本の神 2 神の変容』(山折哲雄編 平凡社 1995.6)

小栗は源義経!?

・鞍馬の毘沙門天の申し子である小栗。鞍馬と言えば、鞍馬で育った義経。
・「判官」と言えばやはり義経。

(折口信夫の「貴種流離譚」は知っていたけど、言われてみれば源義経もそうなのかー。義経がチンギス・ハーンになったってトンデモ説も、ある意味、貴種が追放されて遠くの地で神になったってことと同じなんだねえ)

小栗判官はテルテル坊主と関係がある!?

・テルテル坊主とは、大昔、天気予報を生業とした占い師というか宗教家の姿であり、彼らは予報が当たらなかったりしたら首を切られたり(せいぜい追放されたり)した。天気が悪いときの生贄的存在。
・小栗判官には、小栗が蛇と契ったから長雨になった、それゆえ追放される、というバージョンがある!
・やはり、小栗は村落共同体を追放された人であり、スケープゴートである。
・蛇は雨を表し、照手姫は名前のとおり、そして日光権現の申し子であるから、晴れを表す。小栗は雨と晴れと両方と結婚したのだ!

(いやあ、小松和彦すごい。のけぞった。ちなみに、ヅカファン的には小松和彦はオギーの心の師、だよ。)

肝心の折口信夫ので咀嚼できたのは、

餓鬼とは何か

・小栗が蘇った姿がなぜ餓鬼病み(餓鬼阿弥)なのか。それは、昔は、行き倒れた人の死体がそのへんにいっぱい転がっていたから。行き倒れた人の霊が、旅人を襲い、動けなくしてしまうという妖怪とか、山の霊が行き倒れた人の死体に乗り移る妖怪とかが各地に伝わっている。だから、小栗が餓鬼の姿で蘇るというのは、昔の人からしたら、あー、行き倒れた人が動きだしちゃう感じねー、というふうに全然違和感ないものなんじゃないか。(…すみません、あまりにも超訳です。) (餓鬼阿弥蘇生譚(青空文庫))

(…三郎役のふみかちゃんが、野垂れ死んだ三郎の姿ということで、蘇った小栗役を演じているのは、ここにルーツがあったのだ!! (たぶん)(でもキムシンは絶対読んでるはず))

ほかにも、、、
・餓鬼病みと照手姫が別れる場所「近江」は、昔から再会を意味する地名である。「あふみ」「逢坂山」の「逢う」から来ているのだろう。(折口信夫全集、のどこだったっけ…)

・今昔物語に、行疫神に使役される道祖神の話があり、彼らは騎馬の姿で村々を回るという。(交通の要所であるところに立つ道祖神だから、馬のイメージがあるのは当然か)鬼鹿毛は、道祖神=塞の神!?(高田衛 鬼鹿毛とその騎士--小栗判官論への道程 日本文学 21巻3号 1972.3

(ちなみに、鹿毛とは、全体は茶色だけど端は黒っぽい毛のことだそうです。新座市に鬼鹿毛の伝説があるそうですね。そもそも怖い馬を「鬼鹿毛」と言ったのか、小栗伝説からそうなったのか)

・笛を吹くと蛇が出てくるというのは、盲人で笛を吹く蛇使いの話が昔からあるから。(って、インドの蛇使いのイメージとも重なるけど…)

などなど、いろいろ面白い話があったのですが、これぐらいに。

まだわからないこと
・なんで返した妻は「72」人なんだろう。「75」人というバージョンもあるらしい。特に意味はないのかな?
・照手姫が売られた先はなんで「44」か所なんだろう。
・なぜ「16」人分なんだろう。
・なんで常陸や相模や京都や近江ではなく、青墓の神様になったんだろう。
・なぜ小栗は土葬で、従者は火葬なのか。
・車を曳くと供養になるって、全然わかんないんだけど。何か、ほかに曳くと供養になるものがあるのか? 輪蔵は回すものだよね??
・弓を素手で取るっていうのは、ほかにも例がある?
・鬼鹿毛はなぜ鹿毛なのか。
・巫女が笹を持つのは、神聖で穢れを払う植物だからということなんだろうけれども、巫女=織姫→七夕の笹とも関係があったりするのだろうか? また、馬頭観音と笹とは関係あるのだろうか? 

…何年も経ってから全然違う本の記述で見つけたりするのかもしれませんが、ひとまず、青年館公演も始まったことですし、予習復習シリーズは終了。

全部読んでくださった方、、、きっと一人もいないと思いますが、もしいたら! 万が一いたら! ありがとうございましたーーー!


nice!(0)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

歴代スカイ・レポーターズを調べてみた [ヅカ的近況]

週末は、トップさんと二番手さんのお茶会に連続参加してきました。報告はみなさんじっくり書いてくださると思うのですが、インフルエンザ対応が興味深かったので、メモっておきます。

ユミコ茶は、のどの調子が悪いということでお歌なし。インフルエンザ予防のため握手もなし。でもそのぶんたくさんしゃべってくれて(ユミコのお茶会は終了が遅い!)、しかも関西弁多用ですごく楽しかった。ファンの人大好き、いっぱいしゃべりたい、関西人やねん、っていうキャラをスカステとかでももっと見せたらいいのだ。

ミズ茶は逆に、マスク着用、消毒薬使用で握手。マスクに「Z」の字を書いたりするヅカファン魂に感心。また、「目しか見えないと、目力が強調されていいですね」とポジティブシンキングで楽しんでいるミズにも感心。目力満点なミズさんのアイメイクは、間近で見ると、黒っぽいアイシャドウに、シルバーのラメがギラギラ。ギャラクシー。

やっと本題。

スカイレポーターズの交替が発表になりましたねー。ふみかちゃんがお茶会で「あれ? 5月に発表って聞いたんですけど、まだなんですか〜?」って言ってたけど、5月にも1から31まであるんだよん。

レポーターズの一覧を集めたサイトがないか探してみたが、見つからなかったので調べてみた(斜字が今回の交代)。これで合ってますかねえ?? 退団以外の理由で交替したのは、みきちぐ&ももさりだけだったのかな、今までは。なのでここの交替年月がわかりません。覚えていらっしゃるかた、教えてください。ほかにも間違いありそうなので、見つけたかた、教えてくださーい。

花組男役:2005.7 悠真倫(81期::就任時研11) →2009.7 紫峰七海(86期:就任時研10)

花組女役:2005.7 花純風香(81期::就任時研11) →2007.12 舞城のどか(84期:就任時研10)→2008.8 花野じゅりあ(86期:就任時研9)

月組男役:2005.7 楠恵華(82期:就任時研10) →2006.8 一色瑠加(81期:就任時研12) →2009.7 研ルイス(82期:就任時研14)

月組女役:2005.7 瀧川末子(81期:就任時研11) →2007.11 美鳳あや(85期:就任時研9) →2009.7 憧花ゆりの(86期:就任時研10)

雪組男役:2005.7 麻愛めぐる(81期:就任時研11) → 2006.5 奏乃はると(85期:就任時研8)→2009.7 真波そら(86期:就任時研10)

雪組女役:2005.7 麻樹ゆめみ(84期:就任時研8) →2009.7 早花まこ(88期:就任時研8)

星組男役:2005.7 美稀千種(79期: 就任時研13) →? 祐穂さとる(83期: 就任時研?)→ 2008.10彩海早矢(86期:就任時研9)

星組女役:2005.7 百花沙里(80期:就任時研12) →? 華美ゆうか(86期: 就任時研?)→2009.7 音花ゆり(87期:就任時研9)

宙組男役:2005.7 初嶺まよ(80期:就任時研12) →2007.4 天羽珠紀(83期:就任時研11)

宙組女役:2005.7 美風舞良(82期:就任時研10))→2009.7 大海亜呼(85期:就任時研11)

一度も交替してないところはそろそろ交替するかな、とは思ってたけど、こんなに大規模な交替だったんですねえ。それに、こうして一覧してみると、どの人もみんな好き。私、こういうポジションのジェンヌさんが好きなんだな、もともと。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

オグリの予習復習(浄瑠璃、歌舞伎編) [ヅカ的近況]

小栗判官は中世の説教節がさまざまに改編されて愛されてきたお話。というわけで、歌舞伎と浄瑠璃の台本を読んでみました。

と言いたいところなんですが! 

やっぱ難しい…。説教節はまだ単純なストーリーだからよかったけど、聞いたことないサブキャラがたくさんいて、全然わからん。。。ぜぇぜぇ。

と、とりあえず、あらすじだけチェック。近松門左衛門の「当世小栗判官」(1698)。現代語訳(『日本振袖始 : ほか 近松時代物現代語訳:3 』北の街社 2003.9)に、解説(あらすじ)が載ってました。

驚くべきことに、後藤くんが商人じゃなくて武士! 親の仇を討とうとして傷を負った後藤くん、横山の手下たちが鬼鹿毛の秣を刈っているところにやってきて、なぜか通りがかった都落ちの小栗が助ける、という出だし。わーお。時代に合わせていろいろなバージョンがあるのだなあ。

しかも、地獄の場面が無い。閻魔大王は〜? ねえねえ、萬様は〜? 地獄なんて、どう描いてもギャグになっちゃうじゃん By門左衛門。なのかしら。

その後、より人形浄瑠璃らしくなったという竹田出雲作「小栗判官車街道」(1738)では、照手姫は横山の姪ってことになり、小栗判官は死んだふりをするだけで逃れ、仇討に戻ってくる、というお話らしい。

蘇らないって、そんな! 替え玉貞子ちゃんがいないわけ!? それと、実子を殺すのは残酷だ、せめて姪ってことにしておこう、っていうのが、シンデレラが実子から継子に変化したのと同じようなものを感じますね。

横山大膳が土地の横領をたくらんでいたり、長男の太郎は実子ではなかったり、小栗を殺すための毒酒の効き目を試そうと太郎に飲ませようとして、太郎の妻や実父が犠牲になったり、バカなふりをしていた太郎がじつはすげえ賢くて強いやつだったり(お前はタムドクか)。

うーん、なんか、お家騒動的な要素が増えていくんですかねえ。仇討とか、家族がその犠牲になって死ぬとか。説教節だと、最後に小栗は横山一門を殺そうとするんだけど、照手姫がとめて、仇討しないんだよね。三郎だけが処刑される(そのうえタカラヅカ版では三郎も処刑されない)。けど、「小栗判官車街道」では横山一門を殺してしまう。だってお父さんじゃなくておじさんだから、抵抗感少ない。なんだか世界観が全然違うっぽいいい。

その後、三郎に妻がいたり、十人の家来に名前がついたり、いろーんなバージョンがあったようです。(以上、『當世流小栗判官 : 猿之助十八番の内  国立劇場上演資料集 ; 489』(日本芸術文化振興会 2006.3)p78〜の受け売りで・し・た)

1983年初演の猿之助『當世流小栗判官』(スーパー歌舞伎じゃないほう)はこれらの再構成だそうで、詳しいあらすじはコチラに。http://www5e.biglobe.ne.jp/~freddy/watching144.htm

一番、「えええ」と思うのは、青墓の宿で小栗が助けたお槇、お駒という母娘。小栗と結婚する気だったお駒ちゃん。じつはお槇が照手姫の乳母であることが明らかになり、姫様の許嫁を奪ってはいけないとお駒を諦めさせようとしたお槇はお駒の首を切ってしまい、お駒の首が呪詛の言葉を履いたため、小栗は足腰が立たなくなる。。。

小栗が餓鬼病みになる「理由」を欲する気持ちはよーくわかる。元の説教節には、現代人が納得できる理由なんて描かれてないから。でも、その理由が失恋の恨みとはねえ。ウェットすぎるなあ。そのうえ、主従が一番大事なのよね、こういう世界って。主人のためなら子どもも殺すとゆう…。いやぁぁ。

とか偉そうに言っておきながら、これまた生で観ていない、そのうえ台本も読んでない、付け焼刃 ^^;)。私はすぐストーリーの要素に食いついてしまって、肝心な演出方法に目が行かない癖があるのですが、小栗判官のバリエーションの場合、馬の場面とか車曳きの場面とか、見せ方の変遷も重要でしょうね。どれも、生で観れたら観てみたいです。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた(シアターコクーン 5/22 19:00) [観劇メモ(ヅカ以外)]

川崎賢子が『宝塚というユートピア』で初演に言及していて、ずっと観たいと思っていた作品。

全ヅカファン必見…だけどツラい。なんか苦しい。

戦前、北陸に実在した、百貨店の持っていた少女歌劇団がモデル。百貨店とレビューという組み合わせがまず正しいし、深夜の百貨店で稽古するシュールさがたまらない。毬谷友子の狂気の歌声が冒頭から盛り上げる。

空襲でちりぢりになって解散しても、そのショックで時間が止まって何十年も少女のつもりで、相手役を待っている娘役トップ、三田和代。新聞広告で集まった、かつての組子たち、でも今はオバチャン(彼女たちが三十人のジュリエットなわけ)。「何よ、あたしを100歳の老婆みたいに見ないでよ」「永遠に13歳のジュリエットだと思わせて!」…痛い。痛すぎる。アンチエイジングにやっきになりながらも、少女歌劇に通う自分がそこにいる!

やっと現れた男役トップ、ツレちゃん(鳳蘭)。昔と変わらずかっこいいのに、彼女は現実を理解しているし、もう少女ではない秘密もある。そのうえ目が見えない。ツレちゃんの登場はかなり遅くて、引っ張るんだけど、それがまた再会の感動につながり思わず涙。待って待って待ち望んだ、男役の包容力のイデアが、ツレちゃんというまさに伝説的な男役で現実のものとなる、この恍惚たるや。でも当然ハッピーエンドではなく。

演目であるロミオとジュリエットの死のすれ違いが彼女らの少女性のすれ違いに重なり。ツレちゃんの妹役マミさんはこの再会を喜ばない立場。マミさん、女優さんになったんだなあ。ヅカヅカしくなくて、でも男役の台詞を言うところはかっこよくて、頑で凛としてて。娘役トップを長年支えてきた男性たち(桜内議員らを思わせる)、彼らも永遠の青春を求め。最初はいぶかしがっていたのに最後には取り込まれてしまう?若い振り付け師。馬鹿にしていたのに、いつのまにか乙女になって男役ファンと化している男子(我が家の男性ヅカファンを思わせる)。いろんな立場があって、全然単純じゃない。戯曲読まないとなあ。

ちなみに我が家の男性ヅカファンは、老いについては全然ピンと来なかったらしい。心だけ乙女で外側は男だから、美のレースに最初から参加してないんだ、奴等。ずるい、ずるいわ!

初演は女性は全員OGだったそうです。しかも本当にコンビだった久慈あさみと淡島千景が主役。それはリアリティありすぎるかもねえ。振り付け師が多分、甲にしき。今回の中川安奈は男役みたいにスタイルいいのに、男役芸ができてないところがちょうどよかったのでは。(ちなみにマミさんの役は多分、汀夏子)。ヒロイン三田和代はもう上手すぎて。本当の娘役はあそこまで娘役芸を相対化できるかどうか。(設定的にはお花様にやってほしいけどね。)

ただ、組子たちは全員OGで見たかったかも(今回は毬谷友子と衣通真由美、祐輝薫が参加)。いつまでも元気で可愛らしく、トップコンビに憧れる、たくさんの元ジェンヌたちに、敬意を表して。派手な蜷川演出ではあまりそういうところは重要ではないかもしれないが。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:演劇

オグリの予習復習(戯曲編):荒唐無稽のままでいい [ヅカ的近況]

まず読んだのは、梅原猛のスーパー歌舞伎の脚本(『小栗判官』 新潮社 1991.3)。スーパー歌舞伎というと宙吊り等の派手な演出が有名だけど、タカラヅカ版を観たあとだと、話そのものはそこそこ常識的になるよう、リアリティを加味しているように思えます。

小栗が我がままな理由を「ロマンの病」と定義し、照手姫と唐突に恋に落ちることに説得力を持たせたり。照手姫が献身的なのも、ロマンの病ということにしたり。大蛇は龍子という名前で、小栗とほんとに所帯を持ってる場面があったり。照手姫が16人分働くというあり得ない設定も、6人分とまではいかないが4人分ぐらいは働いている、と現実的。観音様のおかげで、なんてのよりは全然納得できます。

それから、白石征という人の戯曲『小栗判官と照手姫 : 愛の奇蹟』(あんず堂 1997.9)も読みました。小栗ゆかりの地、藤沢の遊行寺で上演したそうです。寺山修司の演出とかやってた人だそうで、つまりはアングラの人。

これは、時系列をかなり入れ替えているのが特徴。冒頭が、照手姫がゆきとせが浦に流される場面。小栗との出会いのいきさつも、小栗がどうして死んだかもわからない。餓鬼病みとなった小栗をひいている場面で、小栗の回想として過去のことが語られる。でもやっぱり小栗がどうして死んだかはわからない。最後の最後、熊野の湯に浸かったときに、小栗の死の場面が回想として演じられる。なんとまあ、餓鬼病みになった小栗は、記憶喪失になってるって設定なんです。へぇぇぇ。

たしかに、メリハリのないというか、ハリばっかりの元の説教節では、起承転結にならないので、こういうふうに入れ替えると現代的な演劇になりそうな気がします。小栗の死ぬ場面は、かなりかっこいい見せ場だものね。

(ほかにも、アングラ、新劇、舞踏などなど、たくさん小栗判官の上演があったようですが、全部は把握できていません)(し、基礎知識がないよん)

さてさて、タカラヅカ版では、そういう工夫は一切されていません。時系列を入れ替えてもいないし、現代人に納得できるような改変もしていない。水仕事は16人分するし、娶って返した妻も72人。

それはそれで、いいんじゃないかと。私が観たときは「72人」のところで笑いが起きていました。誇張して言ってるってことは誰だってわかるし、でもどこかで「小栗判官はすごい人だからほんとに72人返したのかもなー」とも思うし、それはもう昔話の世界ってことで、荒唐無稽さも了解できちゃったんです。

だから、上記二つの芝居とタカラヅカ版は、きっと逆の方向性だったんじゃないかなあ。もちろん、生で観たわけではないので、正しい比較は全然できないんですけれども。

丸山静という人の論文(「小栗判官」をめぐって--「見えるもの」と「見えないもの」『新劇』21巻8号 1974.8)に よると、明治28年以降、小栗判官は上演されていない、今回80年ぶりに歌舞伎で上演された、という引用がありました(元ネタをメモし忘れた)。歌舞伎が近代化する中で、小栗判官の何かが不向きだとされたのだろう、と。(折口信夫も、昔は芝居の演目でしょっちゅう見かけたのに最近見かけない、と書いています。)

その不向きとは、当然ハンセン氏病者の表現だったりするんだろうけれども、お話の荒唐無稽さという意味もあるようです。丸山さんは、荒唐無稽だと思われる 部分を切り捨てたら小栗判官の物語はつまらなくなっちゃうよー、みたいなことを書いておられました(超訳)。

タカラヅカ版は笑っちゃってもいいってことにしたから成功したと思う。丸山静さん、ご存命なのかしら、是非タカラヅカ版を観ていただきたいですが。(→調べたら、20年も昔に亡くなってました。)

あっ、そうか、タカラヅカが非現実的な芸能だから、合うんじゃないの? ねえ? だって、閻魔大王も語り部も、小栗だって後藤だって、男か女かわかんない人なんだよ(って失礼か)。そういう荒唐無稽の極みだから、成立したのかもしれないなあ。えへん。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

アラン・ドロンのゾロ [ヅカ的近況]

いろんなバージョンがありますが、とりあえず評判のいい1974年の映画をセレクト。

1960年代の女性誌を読んでいると、みんながキャァキャァ騒いでいるスターは必ずと言っていいほど、アラン・ドロンなんですよねえ。この映画を見て、みんなが夢中になるのがわかった! だって、かっこいい! セクシー! 

・ディエゴは故郷に帰ってきたわけではなく、誰にも顔を知られていません。
・総督は悪い人ではなく、悪いのは大佐。お飾りの総督が、善政を始めようとすると大佐に殺されるらしい。
・赴任前に殺されてしまった総督が友人だったため、ディエゴは総督になりすまし、あの軽薄ぶりを発揮。
・一方で、民衆へのヒアリングも忘れません。
・貧しい子どもが「ゾロ」という黒いキツネの伝説を信じて、いたずらをしては「Z」の字を描いているのを見て、自分がゾロになろうと思うディエゴ。
・プリド農園の令嬢は、名前はロリータではないが、ヒロイン。寄り目(となみとは逆!)の美女。榊原ルミみたい(古っ)。めちゃめちゃ勝気。タカラヅカ版のロリータが「おきゃん」なのは、日本文化の限界かと思う。この映画ではあんなキャピキャピしていなくて、誇り高い。
・ベルナルドはゾロより小柄で、かわいい間抜けキャラ。心の声ではなく、手話みたいなジェスチャーでコミュニケーション。
・前総督(いい人なので殺されちゃった)の犬が賢くて、ゾロを手助けする。昔の映画って、動物と子どもが活躍するよねー。
・ヒーローはヒロインを口説いて当然。ヒロインはヒーローに口説かれて当然。昔の映画って、そういうところがいいわー。
・というわけで、ディエゴ、ベルナルド、総督、大佐、ヒロイン、とメインキャラは同じなわけですが。もう一人、重要なのがガルシア! 太っちょで(『ゾロ 伝説の始まり』でも太っちょだった)、力はあるが頭は悪い。お尻を刺されたりはしないが、太すぎてズボンが破けちゃったり、お尻がらみのエピソード多し。こういうキャラってどのお話にもいるよね。昔の映画って、類型的でいいわー。
・民衆に慕われていて、大佐に処刑されそうになる神父さんもいます。
・ゾロのフェンシングが、悶絶するほどかっこいい。
・オリンピックで銀メダルとった選手って、ゾロの影響でフェンシング始めたんだ、へーー、わかるわかる!
・倒される人々のアクションも派手。CGの無い時代にここまで。っていうか、CG無いほうが全然ときめく。
・最後の、ゾロと大佐のフェンシング一騎打ちのアクションが、長いのに飽きない。最後絶対ゾロが勝つってわかってるけど、ハラハラする。昔の映画って、こういうお約束がいいのよねー。
・そういえば、自分、大学の体育の授業でなぜかフェンシングやった。「アンガルド」とか言ってた。…それ以外、覚えてない(笑)。この映画見てたらもっとまじめにやったのにぃ。
・あれっ? インディアンのイの字も無かった……。(原住民の人たちはたくさんいたけど、インディアンならではって場面はなかった)

典型的痛快娯楽映画、ヅカファンなら楽しめること間違いなし。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

オグリの予習復習(説教節編) [ヅカ的近況]

きのう、めでたくバウ千秋楽でしたね。小栗の替え玉貞子ちゃん、かなり暴れているそうで。笑える場面になっているとか? 私が観たときは怖い場面だったはずなのにーーー???

タニ&ウメちゃんのことはまだニュースを見ておらず、そして、なんとなく見たくない気分。。。

さてさて、東洋文庫の、元の説教節を集めたもの(説経節 荒木繁,山本吉左右編注 平凡社 1973)を読みました。これは、小栗判官以外の有名どころも収録されているので、それも合わせて読みました。何せ、語られた言葉だから、流し読みができない。しかも大昔の言葉だし。なので、声に出さないまでも、口を動かしながら読むしかなく、えらい時間がかかりました。現代は黙読することが前提だけど、昔は本なんて貴重品で、物語はまさに「語る」ことが普通だったんですよねえ。

説教節で有名なのは、森鴎外が小説化した山椒大夫。鴎外のは読んでないんだけど。これもなんと、悪者は三郎なのです!! 私ずっと、どうして三男が悪者なのかと疑問で。だって、シンデレラとかリア王とかイワンのバカとか、たいてい三番目の子どもは孝行ものの良い子じゃないですか。これって、西洋だから?? まだよくわかんないけど、とりあえずほかにも三郎=悪者を発見!

(…っとここで、重要な情報が。Les jours des joyauxさんによると、三郎は藤原道長を思わせる!? うー、調べることが多すぎる。)

山椒太夫の三郎は、一緒に悪事を働いた父親が砂浜に体を埋められて、ノコギリで首を斬る、という刑の、そのノコギリで斬る役をやらねばならず、しかも次に自分が同じようにノコギリで首を斬られるという、二重に残酷な刑に処せられます。その掛け言葉がなんと、小栗の車曳きの場面と同じ「一曳き曳けば千僧供養、二曳き曳けば万僧供養」なの。注には、もともとは車曳きの掛け言葉で、それがこの場面に転用されたのだろう、とあるけど。

こんなふうに、同じようなフレーズ、設定が、ほかのお話にも使われていて、語られる過程でいろいろに混ざり合ったのであろうことが推察されます。たとえば、「遊女にならないなら、佐渡、松前で、足の筋を切られ、飯は日に一合きり、魚やサメのえさになってもいいのか」という脅し。これは山椒大夫でも出てきました。最後に身分が高くなって領地を賜るとき、大きな領地ではなく、小さな(でも大切な人が残された)領地を求めるのも、山椒太夫。恋文を読んでもらえそうにないから、商人が手紙の手本に、とだまして読ませ、最後に「恋ゆられし人は」と明らかになって怒る、というのは信徳丸。信徳丸は盲目かつハンセン氏病になって、恋人に救われる、ってところが小栗判官とそっくり。山椒大夫の安寿といい、信徳丸の乙姫といい、小栗判官の照手姫といい、女性が献身的なのもパターン。

言い回しも大体同じなんですよね。馬をほめる言葉、女性をほめる言葉、すべて定形がある。だから、今私たちが使うフレーズもあったりします。「飛んで火にいる夏の虫」とかね。

みんな次々ツライ目に合う。「いたわしや」って言葉がしょっちゅう出て来る。だけど、ピンチは神様が救ってくれたりもするし、全然ウェットじゃない。むしろ、なんかエネルギッシュなものを感じる。今の感覚からすると、ほんとに荒唐無稽でしかないんだけど、こういうのにみんなが夢中になったの、わからないでもないような…??? という閃きが、頭の隅っこのほうでピコピコ点灯している。なんなんだろう、これ?

ちなみに、今の感覚でハッピーエンドと言えそうなのは小栗判官だけ。山椒太夫は安寿が死んじゃうし、愛護の若は全員身投げしちゃうし、信徳丸は一応ハッピーエンドかもしれないけどお母さんが死んでるし。それに、鬼鹿毛を乗りこなすとか、閻魔大王に会っちゃうとか、ドラマチックなのはやはり小栗判官。小栗判官が現代でも上演されるのは、むべなるかな、と思いました。

お勉強シリーズ、しばらく続きます。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

奏乃はるとお茶会(5/16) [お茶会報告]

先週のムラ行きの飛行機の中で見たニュースでは、新型インフルエンザが成田で発見された、水際で食い止めたって言っていたのに、一週間で100人とはねえ。わが社でも、お客様と接する部署ではマスク必須になりました。患者さんも、検疫官も、病院の人も、お役所の人も、学校の先生も、休校になった学生も、みんなみんな大変だ。うーん、怖い。

ヅカファン的に何が怖いって、ヅカファンとジェンヌが近すぎることよ。入り出で、お茶会で、確実に2m以内に接するじゃんよ。自分が接しなくても、自分が接した家族や友達がジェンヌに接するし、ファンクラブのスタッフさんや代表さんが接する。。。自分が感染源で巡り巡ってジェンヌが感染したりしたら、切腹ものだぁぁぁ。

落ち着け、落ち着け、どうどう…。(小栗に言い含められる鬼鹿毛の気分)

しかし、ジェンヌさん本人はこんな浮ついたりはしていないのだ。「いつ公演が中止になるかわからない。だから、一回一回を大切に、心をこめて演じようって、そうみんなで言い合ってるんです」うわーん、さすがだー。

そう言ったジェンヌは、素敵なおじさま、にわにわ。憧れのにわ茶に潜入しましたー。

いやー、こんなにロゴスの世界に生きているジェンヌを、初めて目の当たりにしました。物事を、一度抽象化して、それを言語化することができる。強いて言えば、あとは大空祐飛さんぐらいでしょうか。(って全員知ってるわけではないのですが、もちろん。)タカラジェンヌって、規律とパッションの世界に生きている印象があって、いやっ、もちろん、にわにわも規律正しく、舞台に情熱かけてるんだけど、それを言葉にすることができるし、言葉を味わうことができる人、、、。(読書家だって聞いてたんで、そういう目で見ちゃうのかもしれないけど)

話がすごく整理されててわかりやすいの。言葉がつたないジェンヌさんはそれはそれで可愛らしく面白いいんだけど、にわにわの話はすんなり頭に入ってきて、ふつーのお茶会とは違う頭で聞ける。でももちろん、面白いんだよ。

マルケス親父の鬘はアルシンド鬘で、轟さんはそれがお気に入り。とか。菊人形の従者二人のあやしい振りの意味を先生に聞いたが「ただの型なの」と言われてしまい、「そっかー、型なんだ…(苦笑)」。ショーのお坊さんはみんなにすごく愛されていて、あの姿で会った人はみんな手を合わせてくれる、そのうえお布施をくれる動作をする。ながさんに「ビルマの竪琴みたいよー」と言われたとか。マルケス親父が演奏してるところで、下を通る貴族役の下級生たちがいつも面白いアドリブをしている。「あれ欲しいわ」「ドンキホーテで売ってるよ」「足の下に製造番号が」「充電式なのよ」etc…

ああー、自分こそ言語が未発達……。

あんまり、ジェンヌにありがちな建前っぽいこと言ってなかった気がする。かといってぶっちゃけトークでもなく、ごくごく自然に。。。

恒例だという愛読書プレゼント。プレゼントということもあってなのか、重たい感じの本はなかったけど、かなり多岐に渡っていて、絵本、歌集、ピクニック案内、美智子さんの著書、群ようこ。その説明がまた、抽象的なことをわかりやすく言ってくれるんですよ。天皇制についても言及したりして。

お歌も3曲も歌ってくれまして。まず入場がシャンソン! 歌のプレゼントの一曲目は中島みゆき、声質が合ってて鳥肌もの。アメイジンググレイスは、岩谷時子の訳詞がいいということで、この詞もすごく抽象的なんだけど、それをいいと思うところが、にわにわらしさ!?

うーん、すがすがしいお茶会でした。こういうジェンヌさんの目を通したタカラヅカって、どんな世界なんだろう。にわにわって、えと文とか楽屋日記とかってどうだったっけ? チェックしなくちゃー。

で、帰宅して、そら茶に潜入した緑豆と報告大会。知性派ジェンヌと、おもしろジェンヌの(報告)対決。「犬が三匹つながれてて、相互にね、それで動けなくて」「は!? 何それ?? 全然わかんないんだけど」「そういうのを目撃したそらちが撮った写真がプレゼントなの」…うーん、すごすぎる。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇